院内感染は、世界の医療現場において、重要な課題となっています。米国においては、年間200万人の患者が院内感染起因菌に感染し、その結果10万3,000人が死亡していると推定されています。(参照1)また欧州においては、年間300万件の院内感染が発生しており、その死亡率に至っては、他の感染症よりも多いと言われています。(参照2)
日本においては、院内感染の全国的な調査は試されていないものの、入院患者の高齢化が進む中、今後更なる院内感染への対策が求められることが予測されています。
更に近年のパンデミックの影響もあり、病床の確保と国民医療費という財務の面からも、入院の短期化が求められており、長期化の原因となる院内感染への対策が急務となっています。
従来の院内感染対策では、対処しきれないという状況がある中、病院における善玉菌を活用した新たな衛生管理方法の研究が欧米の各大学において進んでいます。本コラムではその一部をご紹介致します。
※参照
1)「マイアミ ユダヤ教病院における院内感染予防」2008年
2)「病院環境における微生物構造に関する表面除菌処理の比較分析」2022年 ドイツ ジェナ大学 ティルマンE. クラサート他
公害研究センター高無菌室における管理 1年間にわたる研究の実施(2010~2011年)。「プロバイオティクス定着の試験:病院病棟におけるクリサル・プロバイオティクスを使用した技術 洗浄・除菌用製品」2011年 フェラーラ大学
主な院内感染起因菌とは
院内感染起因菌にはどのようなものがあるのか、またそれぞれにどのような疾病があるのかご紹介致します。
院内感染起因菌 | 疾病 |
黄色ブドウ球菌 | 黄色ブドウ球菌は、しばしば皮膚感染症を引き起こしますが、肺炎、心臓弁の感染症、骨の感染症を引き起こすこともあり細菌は、人工心臓弁、人工関節、心臓のペースメーカー、皮膚から血管に挿入されたカテーテルなどの医療器具に蓄積することもある。 |
アスペルギルス菌 | 肺や副鼻腔内に、菌糸、血液のかたまり、白血球が絡まった球状のかたまりが形成される。せきに血が混じったり、発熱、胸痛、呼吸困難が生じる人もいる。 |
カンジダ菌 | 皮膚粘膜病変や真菌血症、ときに複数部位の病巣感染症として発症する。症状は感染部位に依存し、具体的には嚥下困難、皮膚粘膜病変、失明、腟症状(そう痒、灼熱感、分泌物)、発熱、ショック、乏尿、腎機能停止、播種性血管内凝固症候群などがみられる。 |
アシネトバクター属細菌 | あらゆる器官系で化膿性感染症を引き起こす可能性があるグラム陰性菌であり、入院患者ではしばしば日和見感染菌となる。 |
緑膿菌 | 尿路感染症、肺炎、敗血症などの日和見感染症の原因となる。 |
腸管出血性大腸菌 | 腸管出血性大腸菌による感染症は、腹部の強いけいれん痛と水様性の下痢で始まり、24時間以内に便に血液が混じることがある。 |
※参照 MSDマニュアル MSDマニュアル家庭版 (msdmanuals.com)
現状の院内感染対策の課題:薬剤耐性菌とは
上記のような院内感染菌に対する従来の対処方法として、化学系洗浄剤・除菌剤による衛生管理があります。しかしながら、菌は、薬品に対して抵抗力を持つようになり、増殖を特定の薬では抑制できなくなるという問題があります。そのような抵抗力を持った菌を薬剤耐性菌と呼びます。実際に、世界中の医療現場で、院内感染起因菌の薬剤耐性が高まり、より強い薬剤を投下して処理をしなければならない清掃の頻度を増やさなければならないといったような状況に直面していると言われています。大量に化学系洗浄剤を使用することは、人体、環境への負荷という観点からも問題視されています。
更には、耐性を持った菌が、院内感染による死亡率に拍車をかけるのではないかということが懸念されています。経済協力開発機構(OECD)の推計によると、2015~2050年の間に、欧州、北米、オーストラリアで、240万人が薬剤耐性菌の感染症により死亡すると予測されています。
日本においては、薬剤耐性菌被害はあったものの、近年まで薬剤耐性菌被害の全国的な調査は為されていませんでした。2018年に、国立国際医療研究センターが病院薬剤耐性菌のなかでも頻度が高いメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)とフルオロキノロン耐性大腸菌(FQREC)について、国内で初めての調査を行いました。その結果、薬剤耐性菌が原因で2017年に約8,000人が死亡していることが明らかになりました。同年の白血病患者の死亡数約8,500人に近づく数値であることが分かりました。(厚生労働省調べ)
このように、医療現場において、従来の化学系洗浄剤・除菌剤による衛生管理では、薬剤耐性菌に対処できないだけではなく、耐性を悪化させてしまう可能性があり、新たな衛生管理方法が求められるようになりました。そこで、欧米の各大学において近年急速に研究が進んでいるのが、善玉菌による院内感染対策です。
善玉菌による院内感染対策研究 イタリア フェラーラ大学研究論文より抜粋
善玉菌の学術名は「プロバイオティクス」で、人体に良い影響を与える微生物の総称です。日本人にとって馴染みが深いものに、乳酸菌や納豆菌などがあり、免疫力の強化に効果があることが認められています。
近年、欧米で注目されているのが、この腸内環境を善玉菌で整えるという考え方を、医療施設の衛生管理に応用するという研究です。
以下にイタリアのフェラーラ大学で行われた研究結果をご紹介致します。
研究論文
「プロバイオティクスを用いた清掃方法が微生物相の生態系に及ぼす効果。病院内の表面におけるフローラ形成効果。」(2015年)
研究者
イタリア フェラーラ大学 医科部微生物・遺伝学学科 助教授エリザベータ カセーリ等
研究目的
善玉菌洗浄剤の清掃による以下の効果を検証。
院内感染の原因となる病原菌が減少するか。
耐性菌を持った病原菌が減少するか。
実験場所
クィシサーナ病院 (イタリア フェラーラ)
病院は2階建てで、それぞれ長期療養型手術室、老人病棟、急性期病棟から構成されている。
実験方法
使用洗浄剤を従来の化学系洗浄剤から善玉菌洗浄剤に変更※。
※清掃方法、清掃対象箇所(床、ベッドの足台、洗面台等)は従来と変更なし
実験の期間
半年間
使用製品
善玉菌洗浄剤x 1種(バチルス菌※3種を10,000,000/1m含む)
※バチルス菌:納豆菌などと同じ枯草菌の一種
サンプリングの採取
病院内の同一箇所において、定期的にサンプリングを実施。
床、ベッドの足台、洗面台という3つの異なる表面からサンプルを採取。
清掃から7時間後にサンプルを摂取。
効果/結果
アシネトバクター菌、シュードモナス菌、カンジダ菌、アスペルギルス菌(肺の感染症)、黄色ブドウ球菌、腸内細菌、クロストリジウム・ディフィシレ菌はほぼ0となった。特にブドウ球菌属が大幅に減少。※グラフ1
院内感染菌のゲノム数*が減少。※グラフ2
薬剤耐性遺伝子が減少。※グラフ3
【グラフ1】院内感染菌の減少
【グラフ2】院内感染菌ゲノム数※の減少
※ゲノム:生物が正常な生命活動を営むために必要な、最小限の遺伝子群を含む染色体の一組。種によって数が異なる。
【グラフ3】耐性遺伝子群の変化(善玉菌洗浄1ヶ月後)
耐性遺伝子は、善玉菌洗浄開始時に比べて全体的に減少した。特に黄色ブドウ球菌の識別遺伝子とスパ遺伝子において大きな減少が見られた。(唯一の例外はmsrA遺伝子で、試験開始時と比較しわずかに増加した。この結果は、バチルス種にmsrAの構成的染色体抵抗性が存在するため想定内であった。)
日本の医療現場における善玉菌活用の可能性
日本の医療現場において、「除菌」による衛生管理の考え方が非常に根強いです。そのため、たとえ人体に良い影響を与える微生物であっても、医療の現場に導入されるには様々な障壁があることが考えられます。しかしながら、食品の世界においては、日本はむしろ、漬物、味噌、納豆など伝統的な食品から、ヨーグルトや飲料における独自の菌株が開発されており、善玉菌の先進国であるという側面もあります。このようにプロバイオティクスの素地が社会的に築かれている日本において、医療の現場に対しても、善玉菌の活用が注目されるようになることが予想されます。更に、高齢化が進む中、持続可能な院内感染対策への切り替えは急務となるでしょう。SDGsという観点からも、近い将来、医療機関において、化学系洗浄剤・除菌剤を大量に使用することが疑問視され、環境に配慮した衛生管理方法が求められるようになることが考えられます。
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